2026-07-16

伝統から生まれた「福山レザー」——革と共に生き、命を尊ぶ。その文化を伝え続ける

株式会社サード / 代表取締役 / 三島
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広島県

「革」の家に生まれ、紆余曲折を経て辿り着いた「独立」の道

はじめまして。
株式会社サードの代表取締役を務める三島進です。

私が経営する「レザースタジオサード」では、地元の広島県福山市で、天然藍で染め上げた独自の「福山レザー」をはじめ、ランドセルのリメイクや記念品など、ユニークな発想と職人の高い技術を堪能できる工房兼ショップを運営しています。
NHKの番組「あさイチ」や日経新聞など、メディアの取材にも50回以上取り上げていただきました。

この記事では、私が革職人として独立した歩みや、特産品「福山レザー」誕生の裏話、そしてコロナ禍のピンチを乗り越えて、「三本の柱」で未来へ挑むサードの軌跡とこれからを、思わず笑えるエピソードも含め、お伝えしていきます。

▼革職人の家に生まれ、革と共に過ごした青春時代
私は福山で「クラフト工房カーフ」を営む家の三男坊として生まれ、革の匂いに包まれながら育ちました。
中学時代には「クラブ活動代わり」と、父親の工房を無理やり手伝わされました。遊び盛りでしたので、遊びに行きたいと父にこぼしたこともあります。ただ、職人気質の父からは、「おぅ、ほんまか。嫌なら出て行け」と返ってくるだけでした。

そう言いながらも、私自身も革工房の手伝いを楽しんでいたのです。
小学生の頃から、工作が好きだったことも影響しているかもしれません。学校から帰宅し、工房の手伝いをして、夕食を食べ就寝する――そんな生活を中学校から高校卒業まで6年間、“クラブ活動”として楽しみながら続けました。

三男の私に手伝いをさせたのは、父なりの「美学」があったようです。長男に家業を継がせると次男と三男が「必要でない子」になってしまう。それを避けるために三男の私を後継ぎ候補として育成した、という経緯があったようです。

▼「音楽」のための上京。半年で福山に逃げ帰った理由
しかし、高校入学後にある変化が訪れました。家で兄が使っていたドラムセットに触ったのをきっかけに、友人と趣味でバンドを組むようになりました。バンドを続けるうちにのめり込み、高校卒業後には「東京で音楽活動をしよう」と考えるようになりました。
広島にいて、しかもバンドをやっている若者は、卒業したら東京を夢見るものなのです(笑)。私も例に漏れず、東京へ飛び出しました。

東京では、何十店舗も展開している本格江戸前鮨店で働きながら、バンドを続けていました。鮨屋を選んだのは、単に「寮と食事付き」という理由からで、実は、「鮨」には一切興味がありませんでした。
しかし、そこでの経験はいい思い出だらけです。初めての接客や、仕事終わりに先輩が連れて行ってくれる食事の時間は楽しく、お客様からも気に入られて、いつの間にか店長から「次期店長だな」と言われるまでになっていました。

「……いや、この状況、おかしい!」
そんな毎日を過ごしていたある日、当初の目的であるバンド活動が全然できていないことに気が付いたのです。音楽ができないと分かり、私は半年間で東京を後にし、地元の福山へ逃げ帰ることになりました。
加えて、私は味のセンスが微塵もありませんでした。何を食べてもすべて美味しく感じてしまうのです。「食」は私が歩む領域ではないと認識したことも、地元に戻った理由の一つです。

実家に戻った当初は、「まずはアルバイトで資金を貯めて、今度こそ音楽をするために東京へ行こう」と考えていました。
すると、父から「ちょっと手伝え」と声を掛けられたのです。

そして、いつの間にか再び革工房を手伝うようになり、そこから気付けば8年間、父の工房で働いていました。

▼「革」の魅力を再認識した8年間。そして、「サード」の誕生へ
父の工房で本格的に働き始めてから、改めて「革」の面白さに目覚め、その魅力に夢中になりました。
さらに経験を積めば積むほど、レザークラフト職人として自分の技術が上がっていくのを実感しました。
そして2004年、革のコンクールにて初入選。その後5年連続で入選を重ねることができたのです。

振り返ってみると、東京で過ごしたのが半年間。
「革」に向き合ってきた中学・高校時代の6年間と、地元に戻ってからの8年間。

私が革から離れたのはほんの少しだけで、実質14年以上も、ずっと「革」と一緒に歩んできたのです!

職人としての道を着実に歩んでいたそんな折、突然私の兄2人が実家に帰ってきました。彼らも父のもとで働き出したのですが、一番経験があるのは私ですから、当然一番腕が立つわけです。それにもかかわらず、兄だからと偉そうに指図し、さらには父までもが「長男に工房を継がせるか」とうっかりこぼす始末。
「おいおい、ふざけんなよ。俺が何年やってると思ってんだ」と、内心は面白くありません。

ある日、「上等だ。辞めてやるよ」と怒りが頂点に達したことがありました。父の工房を辞めて、いっそ自動車工場ででも働こうかと考えていましたが、妻に相談すると、思いもよらない言葉が返ってきたのです。

「それなら独立したら?」
「え?」

私は「独立」など全く頭にありませんでしたので、一瞬面食らいましたが、言われてみれば名案だと思いました。

「なるほど。よし、独立しよう」
こうして、私は独立へ向けて舵を切ることになりました。

「お前は腕があるから大丈夫だ」父の支援も受けながら、2007年に「レザースタジオサード」が誕生しました。
仕事ゼロ、顧客ゼロ、開業のためのローンを抱え、妻と生まれたばかりの子どもとともに、私たちは挑戦の道を歩み始めました。


「福山レザー」誕生秘話とサードの黄金期。そして訪れた絶体絶命の危機

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▼見つけた大きな夢。福山の「特産品」を作る!
全くのゼロからのスタートでしたが、コツコツと仕事を積み重ねるうちに、少しずつお客様が付いてきてくれるようになりました。
ある時、営業で参加した異業種交流会で、尊敬する先輩経営者に出会いました。当時の私は、まだ「大きな夢」など持っておらず、ただ良い製品を作って自分たちが楽しく働き、お客様が満足してくれればそれでいい、と思っていました。
ところが、先輩と熱く話しているうちに、私の中に一つの「大きな夢」が芽生えたのです。

それは「サード観光地化」という夢です。

「売れて東京を目指す」はよくある話ですが、そうではなく「東京からわざわざ、サードを目指して来てくれる」ような店になろう。そう固く決心したのです。

最初の目標として思い立ったのが、有名旅行ガイドブック「るるぶ」への掲載でした。調査のために本屋へ足を運んだのですが、驚くべき事態に直面します。「るるぶ福山」が、棚のどこにも見当たらないのです!
「尾道」や「倉敷」の単独版はあるのに、広島県第二の都市と言われている「福山」がどこにもない。
さすがに、「広島県」には載っているだろうと手に取ると、そこにもない……。
間違えて、隣県の「岡山」に載ってしまったのかと、そちらのページをめくってみても、「福山」の情報がない……。

誇れる地元がすっぽり抜け落ちていることが非常に悔しく、私にとっては大きな衝撃でした。
福山は観光地でないと思い知らされたのです。それなら「サード観光地化」の前に、まずは「福山観光地化」という目標を追いかけようと決心しました。

そして、できることを考え抜いた結果、誰もが認める「福山の特産品」を作ろうという考えに辿り着いたのです。

▼「福山レザー」開発の背景 ―瀬戸内海の絶景と、歴史が息づく街―
生まれ育った福山は、瀬戸内海に様々な島々が連なる美しい景観、「多島美(たとうび)」を堪能できる素晴らしい街です。瀬戸内海沿岸のほぼ中央に位置し、景勝地「鞆の浦(とものうら)」は古くから海運の要所として知られています。

歴史を遡ると、約400年前に徳川家康のいとこである水野勝成が福山藩を任され、西の守護の要として「福山城」を築城。この水野公が基礎を築いた産業が「繊維産業」でした。福山は干拓された土地が多く、土壌に塩分を多く含むため稲作には不向きでした。そこで水野公は、塩害に強い綿花の栽培を奨励。このおかげで、福山は大きく発展を遂げることができたのです。

その中で生まれたのが、伝統工芸品である「備後絣(びんごがすり)」です。素朴な風合いと、藍色を基調とした美しい幾何学模様の備後絣は、たちまち人気となり全国へ広がっていきました。やがて生活様式の変化と共に生産こそ縮小したものの、その染色・縫製技術は、現代の「デニム」へと受け継がれていきました。こうした歴史の背景があり、現在の福山は「日本一のデニム生産地」になっているのです。

特産品を開発するにあたり、福山の歴史を調べれば調べるほど、私の「愛」はますます深まっていきました。歴史ある伝統産業と「革」を組み合わせた唯一無二の特産品を作りたい。そう切望していた時に出会ったのが、「備後絣」でした。
その「藍染め」から着想を得て、私は「福山レザー」の開発へと乗り出したのです。

▼特産品「福山レザー」の誕生。全国から取材が殺到した絶調期
しかし、開発は一筋縄ではいきません。
通常の方法で革を藍染めすると、まるでプラスチックのように固くなってしまうのです。革本来のしなやかさを保ったまま、美しい藍色に染め上げるには、非常に難易度の高い技術が必要でした。

私たちだけでは実現は難しいと、取引先の染料屋へ相談を持ち掛けました。その方は染料に関するあらゆる知識と経験を持つ一級の専門家で、私の熱意に応え、「福山レザー」を完成させるための特別な技術を惜しみなく指導してくれたのです。
こうしたご縁にも恵まれ、試行錯誤の末、天然藍で美しく染め上げられた「福山レザー」が完成しました。
この製品は、自社で染色から製作、販売までを職人の手で一貫して行っています。

瀬戸内海の空と海をあなたの手の中に――。
新しい福山の特産品「福山レザー」が第一歩を踏み出したのです。

自慢の特産品を生み出した私は、「福山レザー」を抱えて福山市役所に駆け込みました。
そして、担当の職員に向かって、こう言い放ったのです。

「俺を認めてくれ」

すると、その職員は助成金の案内を始めました。これを聞いた私は、思わず頭に血が上り、こう続けてしまったのです。

「そんなに金がなさそうに見えるのか。失礼だぞ、金なんかいらねぇ!」

こうしたひと悶着の末に、その職員の話をよくよく聞いてみると、「助成金を受けること自体が、『特産品』だと承認されること」になるというのでした。こうして私は手続きを済ませ、「福山レザー」は、正式に福山の特産品として認められたのです。

私たちは、「福山レザー」を広く知ってもらうための広報活動にも力を入れました。市役所の記者クラブを通じて情報発信したところ、嬉しいことに取材が殺到したのです。
地方メディアから、全国区のテレビ、新聞、Webなど、多岐にわたる媒体に取り上げていただきました。「渋谷ヒカリエ」へのイベント出店や、「ひろしま美術館」にも商品を置かせてもらいました。さらに、福山市市制施行100周年記念として、「星籠の海(せいろのうみ)」(福山が舞台のミステリー映画)が制作された際、ある場面が「革工房」という設定だったのです。もともと福山の「革」は無名でしたので、「福山レザー」が広く認知された証拠だと誇らしく感じました。

▼「ルールチェンジ」による急転落。地獄から這い上がり学んだ教訓
しかし2020年、サードを未曽有の危機が襲いました。世界中を混乱に陥れた「コロナ禍」の襲来です。

さらに恐ろしかったのは、私たちの業界にはその甚大なダメージが2年程遅れてやってきたことでした。コロナ禍の直後は、売上減少の波が比較的穏やかだったのですが、国や自治体の救済施策がほとんど終了した頃、突然売上が激減したのです。
これまでの来店客数の減少に加え、法人向けのOEMの仕事が一気にゼロになりました。さらに材料費も高騰し、黒字続きで右肩上がりだった状態から一転して債務超過へと陥ってしまったのです。

当時の絶望的な恐怖は、今思い出してもぞっとするほどです。
毎月毎月、お金がただ減っていくのを眺めることしかできないのです。
こんなにも簡単に「ルールチェンジ」が起こるのだと、恐ろしさで全身が震えました。

「立ち直れないかもしれない」という考えを必死でかき消して、自分の心を奮い立たせました。抱えているスタッフもいる中、経営者である私が折れるわけにはいきません。
死に物狂いで働き、立て直しのためにできることはすべて実行しました。コロナ禍を機に広まったオンライン上の交流会や商談会にも積極的に参加し、新しい販路の開拓を模索しました。

こうした取り組みをコツコツと続け、ようやく2024年に黒字へと転換、2025年も黒字を継続することができました。
しかし復活のための余力があったのは、コロナ禍の始まりに、金融機関から打診された融資を受けていたからです。そうでなければ、打てる手も打てず、会社は潰れていたと思います。

この地獄のような経験から、私はある教訓を学びました。
職人として、地道な努力を積み上げることは非常に重要です。
しかし、その地道な努力は「ルールチェンジ」により一瞬で崩されると思い知らされました。ですから、堅実な努力を続けながらも、同時に別の側面からチャンスを狙い続けなくてはならないのです。

そして今、サードは新たな飛躍のための挑戦を始めています。


飛躍に向けた「三本の柱」と、革を通じて伝え続けたい「Life with leather」

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▼今後、会社で実現したいこと
現在は新たな「三本の柱」に注力し、さらなる成長を目指しています。
一本目の柱は「ランドセルリメイク」です。ランドセルを背負って登校した大切な6年間。革職人の手で、その貴重な「思い出」に新たな命を吹き込むことができます。こちらが好評で、毎年多くのオーダーをいただいています。

二本目の柱は、気軽にレザークラフト体験ができる「ワークショップ」です。コロナ禍が明けてから、旅行需要も急回復し、「体験」を求めるお客様も増加しました。このワークショップが、サードを広く知っていただくきっかけになればと考えています。

最後の柱は、私自身のYouTube活動です。チャンネルでは、「レザークラフト」に関するものづくり動画を配信。レザークラフトが趣味の人はそんなにいないだろうと、当初は遊び半分で始めたのですが、今では登録者が1万人に上るチャンネルへと成長しました。
しかも、動画を見てくれている人たちが、クラフトに使う革の購入のために来店してくれるようになったのです。ありがたいことに、はるばる青森から来てくれた方もいます。

この三本の柱を強く太くしながら、さらに、サードは新たな計画も構想しています。
それは、「海外向けのライブコマース」です。国内だけでなく、海外も見据えた戦略を描くことで、大きな飛躍のチャンスを掴みたいと考えています。

▼さいごに
「サードを観光地にする」
この想いは、ずっと変わらず抱き続けています。

私たちの理念は、「Life with leather」です。
革のある生活をし、革と共に生きる。
そして、革は命です。

もともと「革」は、命を営んでいた動物たちから受け継いだもの。ただ大量に生産して、飽きたからといって捨てていいものでは決してありません。

私の好きな言葉に「五分五分(ごぶごぶ)」があります。
立場や年齢は違えど、一人ひとりの命の価値は五分五分で対等です。
そして極端な捉え方かもしれませんが、私自身と革も「五分五分」だと、私は考えているのです。
もし私が死んでしまったら、私の“革“を財布にして欲しいくらい(笑)。
それくらい「革」には尊い価値があると、私は信じています。

一般的に、材料の革から製品として生まれ変わる歩留まりは60%と言われています。その40%は廃棄されてしまうのですが、私はそれがとても嫌でした。
ですから、サードでは大切な命を極力無駄にしないように、歩留まりを80%にまで引き上げています。
こうした命を尊重する文化をサードの活動を通して、広めていきたいのです。

そして、革職人を「憧れの職業」にできたら最高です。「小学生のなりたい職業」トップ3に「レザークラフター」がランクインしている未来を本気で目指していきたいと思っています。

「革」の魅力と、命を繋ぐ文化を伝えるためにも、私が先頭に立ち、これからも全力で挑戦を続けていきます。


profile

氏名
三島
役職
代表取締役
Youtube
https://www.youtube.com/@misimasusumu

Introduction

企業名
株式会社サード
所在地
広島県福山市多治米町6丁目3番17号
事業内容
皮革製品の製造・卸・販売業。
カバン、財布、名刺入れ等の、「革小物」をメインに
企画、デザイン、製作、販売。

企業周年記念品等
1個〜1,000個の小〜中量製産を得意とする。

最近のtoCでは、「ランドセルリメイク」がプチバズり中。
資本金
300万円
企業サイト
https://leatherstudiothird.com/
Instagram
https://www.instagram.com/third.lifewithleather/
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